ネグリ『生政治的自伝』(杉村昌昭訳、作品社、2003年)(by 高杉公望)           目次ページに戻る

 

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 この本で、たとえばネグリは現代世界の問題について次のように述べている。いたって真っ当な発言である。こういう部分を正面に見据えて日本でも受容されているのなら、ぜんぜん文句はないのであるが。

 「したがって、もはやアメリカ対中国という構図はないのであって、世界の資本主義エリートが、一人一人の人間、すべての人間に対立するという構図になっているのです。このような新たな序列秩序がつくられつつあって、そこにおいては何一つ安定しているものはありません。そして、実際問題として、われわれは新しい法秩序の設定に立ち合っているのです。もちろん、ものごとを決定しているのは世界のエリートたちですが、彼らは自分たちが倫理的次元の責任者であるとは思っていません。(中略)では、こうした状況に対して、どのように闘ったらいいのでしょうか? このような一見敵がいなくなってしまった状況が、権力にとっても、権力に抵抗しようとするすべての者にとっても、現在、大問題になっているのです。」(pp.117-118)

 「NGOについても同じことが言えるのであって、人々を解放すると信じているNGOの行動のなかには、ときに恐るべき倒錯がみられるのです。国連平和維持軍、基本的人権、干渉または不干渉といったことについては、額面通りに受け取るのではなくて、一定のアイロニーをもって見つめることが必要だと私は思います。NGOを抽象的に非神話化して楽しもうというつもりで言っているのではありません。そうではなくて、すべてが信じがたいほど複雑化しているということを言いたいのです。私は懐疑論者でもなければ、歴史主義者でもありません。抑圧というものは再定義しなければならないと考えているだけです。」(p.165)

 

 また、ネグリの哲学のとらえ方は、非常に素直なものであって、フランス人のようにわけのわからないものではない。カール・ポパーについても、カントについても、イギリス哲学(ヒュームなど)についても、言及のされ方は、これまたごく真っ当なのである。

 「哲学の貧困と反プラトニズムの必要性を語ったのはポパーですが、彼は必ずしもそれを実行したわけではありません。」(p.223)

 「カントにあっては、想像力の持続的効果は実に近代的です。そこには、建設的な想像力の持続があります。カント以前にヒュームがそれを理解したにしても、カントは重要な哲学者でありつづけています。なぜなら、カントは超越論的機能を取り出すのに成功したからです。ただし、そのあと、観念論者がそれを台無しにしてしまいましたがね。『判断力批判』は、啓蒙思想とある種のイギリス哲学の遺産を実に見事に活用させたものです。」(pp.131-132)

 

 ネグリは、イタリアのアカデミズムで伝統的な哲学の教育と研究の訓練をきちんと受けてきたとのことである。それは、アカデミズムの狭い世界のあり方としては、日本に移植されたあり方と同質(とはいえ伝統の厚味が比較にならないだろうが)だったように見受けられる。
 それは、フランスの哲学アカデミズムと対比してのことである。ネグリは、フランス哲学界について次のようにいっているが、これは、日本でもよく知られている事柄である。

 「フランスでは、奇妙なことに、哲学者は『もとのままに』では決して入ってこないで、常に再解釈をほどこされてから入ってきました。たとえば、ハイデガーは最初にサルトルとともに入ってきて、その後、真のハイデガーにアクセスすることができるようになるまでに、五十年も待たねばなりませんでした。ウィトゲンシュタインの場合も同じで、彼が読まれるようになったのは、ある意味でラカンに体現された言語学的転換が起因になっています。ドイツの哲学を読むために精神分析を通過しなければならないというのは、実に信じがたいことです。」(p.218)

 「フランスではしょっちゅう起きることですが、『翻訳=裏切り』という現象があるのです。(中略)ヘーゲルに対してコジェーヴやイポリットが占めている位置を考えてみてください。たいへん偉大な注釈者が、同時に、原著のきわめて部分的で偏向した受容の仕方の責任者でもあるのです。」(p.219)

 われわれが読む限りでは、ネグリ(やフーコー)は何周遅れの議論をしているようにしかみえないが、しかし、急ピッチで前進しているといった感じは受ける。そこのところをちゃんと読みとって、日本でネグリ(やフーコー)を読む人は、またまた見当違いの方角に走っていかないことを祈りたい。

 

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 ネグリ自伝のA章をよんだら、イタリアというのは完全に、つまり政治制度的にも産業経済的にも、日本よりもはるかに後進国だったことに今更ながらおどろいた。

 日本で戦後世代による突き上げ的な国民的大衆運動が盛り上がったのは1960年であった。つまり、それは、ほんの数年前までA級戦犯として巣鴨プリズンにいた安倍晋三氏の祖父御にたいする、理屈ぬきのアレルギー反応であり、本能的な世代交代の要求が、あれだけの大衆運動のエネルギーをもたらしたのであった。

 他方、フランスは、共和制・立憲制をめぐる政治制度をめぐる歴史的な体験においては、イギリス、アメリカとともに最先端に位置していたのは間違いないが、産業経済的には日本よりもさらに遅れていた。また、政治的な世代交代も、いわゆる「68年5月」によって、ドゴールに対するノンが突きつけられたのであった。

 もっとも、奇妙ことに、日本でもフランスでも、闘争の大きな盛り上がりの後の総選挙では、自民党もドゴール派も大勝利したということである。しかし、それにもかかわらず、それぞれの政局によって、岸もドゴールも退陣を余儀なくされていった。

 基本的な枠組みにおいては、フランスのほうが遙かに政治先進国であるはずだが、第二次大戦の戦後処理、世代交代といった特定の局面の推移においては、フランスは、日本に遅れること8年にしてようやくにして、きわめて似たような経験をすることとなったわけである。これをもっていうなれば、いちぶの虚言をなりわいとする文学者のいう「六八年革命」とかいうものは、日本からみれば、8年遅れの六○年安保のようなものだったことになる。という、別の虚言も成り立つということである。

 さて、イタリアである。イタリアでは、なんと68年はひとつの終わりを区切る象徴ではなく、開始を告げる象徴となったらしい。新左翼の暴力的な闘争がこのころから次第にエスカレートをはじめ、本格化するのはなんと1973〜1982年のことだったというのである。日本では、1972年の連合赤軍事件で、一切合財が終焉してしまった後の時期に、「赤い旅団」のテロリズムへの傾斜がすさまじいところまで突き進んでいった。

 ネグリ自身も、当時のイタリアの警察・検察・裁判所のフレームアップ攻撃は、実際に無茶苦茶なものであり、武闘路線の登場もやむをえなかったとしている。イタリアは、ファシスト党が大衆的基盤を持ち、ローマ法王庁やマフィアが強大な力をもち、他方で構造改革派の共産党がこれまた圧倒的に大きな勢力を持っているという国である。しかも、世界地理に弱いわたしには驚きだったが、イタリアは、アドリア海をはさんで東欧とじかに対峙しているという地政学的な位置にあったというのである。冷戦時代の緊張感というのは、非常に深刻なものがあったわけである。

 イタリアの政情をイメージするときには、あのブーツのような半島が地中海のほぼまん中に突き出ているとして、地中海の西端のスペイン(フランコ独裁政権が75年まで続いていた)、東端のトルコ、対岸の北アフリカ諸国(アルジェリアやリビアなど)と近いものとしてイメージする必要があったのである。

 しかし、ネグリは、「赤い旅団」の要人暗殺などの路線に対しては批判したため、「赤い旅団」から処刑宣言すら受けたという。このあたり、武装闘争時代の「赤い旅団」の路線とその当時のネグリらの路線との位置関係というのは、日本でいうとブントの赤軍派と蜂起戦争派ぐらいの位置関係のような感じであろうか。事実、いま日本でネグリを肯定的に受け入れようとしているのが、おおむねこの蜂起戦争派の系統のひとたちだということからみても、時代体験や感性の類似性がうかがわれそうである。

 

 ところで、ネグリによると、かつての「赤い旅団」の人々の多くは、もはや共産主義そのものをやめてしまったが、他方、ネグリ自身は−−この三十年間における資本主義における労働の潜在化、グローバル化、生産の社会化、国民国家の漸進的消滅等々といった根本的な諸変化を洞察しながらも−−依然として共産主義者だそうである。むろん、武装闘争路線はとうに引っ込めている。

 このあたり、昭和八年生まれのネグリは、日本における同年の廣松渉と同様に、奇妙な固執にとらわれている。そこには何か世界史的な時間性の根拠があるのかもしれない。
 大正十三年生まれのリオタールと吉本隆明が、奇妙に割り切りよく、1980年代の日仏思想界の言説を、いい意味でも悪い意味でもかき回したのと対照的ともいえる世代性である。(2003年9月25日)

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